2017年12月14日 (木)

2つの映画上映会

      


主宰している学習塾「七色学舎」にてここ最近行われた二つの映画上映会について塾新聞の裏面に文章を掲載しました。備忘録として当ブログにもアップしておきます。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


前回の塾新聞から今回の配布時までの間に2つの映画上映会がありました。その様子を紹介したいと思います。
まず一つ目は、11月12日(日)に当塾の2階教室を会場に七色学舎の秋の文化企画として「生演奏で観る無声映画上映会」と題し開催しました。

上映されたのは「世界初のSF映画」と言われるメリエスの「月世界旅行」(1902)と、バスター・キートンの「探偵学入門」(1924)。

2本の無声映画に、生演奏で音楽を付けてくださったのはクラシックギター奏者で作曲・編曲家の小関佳宏さんとピアニストで作曲家のチダショウコさん。2015年仙台短編映画祭で初演されて以来各地で称賛されているお二人のパフォーマンスをお二人のご厚意により当塾で披露していただきました。チダさんが「(公財)音楽の力による復興センター・東北コーディネーター」ということもあり、お二人は被災各地での演奏活動も精力的に行っていて、十分な設備の揃わない会場を苦にすることなく高い演奏能力で私たちを魅了してくれました。

当日は塾生、親御さん、チラシをみて来てっ下さった一般参加の方を含めた約30名が、お二人の素晴らしい演奏のもと上映されたモノクロ無声映画を、最初は不思議そうな面持ちで見つめ、途中からは喜劇王キートンの映画の世界に引き込まれ笑いに包まれる場面も見られました。

私たちが技術の進歩で日々更新される刺激ばかりを追いかける一方、昨年イギリスではアナログ盤レコードの売り上げが300万枚を突破し、28年前の水準にまで復活したというニュースもあります。

現在という時間の中だけで日々更新される刺激ばかりを追いかけるのではなく、過去も含めた時間の中からそれぞれが自分に合った心地よさを選んでいくというのも私たちの暮らしを豊かにしてくれるのだと改めて感じました。


二つ目は中間・期末テスト終了後に、土日返上の試験対策をがんばったことへのご褒美として行われている恒例の映画上映会。今回は韓国映画の「ハナ 奇跡の46日間」を観ました。

1991年に日本で行われた卓球の世界大会に「コリア」の名で出場した北朝鮮と韓国の女子統一チームが、互いにあらゆる葛藤を乗り越えて友情を結び、優勝するまでを描いた実話に基づいたドラマ。

Yjimage

テレビでは北朝鮮とアメリカのリーダーがお互いを挑発しあい、一歩間違えれば日米韓VS北朝鮮という図式の中、戦争になりかねない雰囲気に包まれていますが、塾生の皆さんには国のリーダーと同じ視線ではなく、それぞれの国で暮らす若者たちの視線で物事を見つめてもらいたいと思い、TSUTAYAに注文までしてこの映画を選びました。

最初は敵意むき出しのライバルとして出会いそして最後にはダブルスを組むことで信頼と友情を結ぶ北朝鮮のリ・プニと韓国のヒョン・ジョンハ。個人的には、韓国のヒョン・ジョンハが「韓国に来ない?韓国に来ればあなたの病気を治せるかもしれないから」と病気を抱えながら戦う北のエース、リ・プニに問いかける場面でのリ・プニの返答が心に残りました。

「どんなに貧しくても、私は祖国で暮らしたい」

 この映画でも描かれているように、どの国に暮らしていても父や母を思いやる娘がいたり、娘を思いやる母親がいます。友達を思いやる仲間がいます。どんなに世の中がおかしなことになっても、そのことを忘れないで欲しいと思います。

 この恒例の上映会では塾生の教養を高めてくれるような古典や皆で一緒に考えたいと思う内容を含んだものを選んでいます。親御さんにはご理解の程宜しくお願い致します。

2017年10月16日 (月)

2017.10.14 木星音楽団 地球音楽会 in 長井 

         

昨日は長井市文化会館でやぎりんさんの木星音楽団地球音楽会による「広い河の岸辺コンサート」が行なわれました。

ちょっぴりスタッフとしてお手伝いさせていただきましたが演奏が始まってからは一音楽ファンとして楽しませてもらいました。

昨日印象に残ったのはゲストで歌われたソプラノ歌手の竹田恵子さんによる「ありがとういのち Gracias a la vida」です。

ジョーン・バエズの歌唱で聞き慣れていたこの歌が全く違った形で表現されていて、原作者の心情に強く寄り添うものになっていたように思いました。

そして歌を通じて社会変革を目指したビオレータ・パラの歌が選挙戦のさなかに歌われたことも個人的に感慨深いものでした。

ヒットソングとして市場経済の中で消費されていく歌ばかりに接している私たちですが、本来歌はそういったことのためではなく、私たちの暮らしの喜怒哀楽の中から生まれ、多くの人に共感されたものが優れた作品として歌い継がれていくはずです。

東日本大震災と原発事故という危機的状況を背景として八木さんによって訳詞された「広い河の岸辺」は被災地で多くの被災者・避難者、被災地を支援する心ある方々、またそれとは別に極めて個人的な感慨を持つ方々から共感され、歌われ、歌い継がれる歌になりました。パラの歌と同様にやぎりんさん訳詞の「広い河の岸辺」は前述に沿って言えばまさに後者です。

そしてそのような本来的な「歌」に触れてしまうと欲張りな私は考えてしまうのです。「現状の危機を背景として歌われる歌とは何か?」と。

日本は今社会の変わり目にあって、変わるなら変わるでいいのですが、現時点できちんと決められたルールに基づいて正しい手続きで変わるのではなく、ルールを勝手な解釈で変更したり、守らなかったり、誤魔化したり、隠したり、少数意見を最大限尊重するという多数決の原理を誤用したり・・・正しい手続きを踏まずして訪れる変化は「悪化」でしかないし、「危機」でしかないと思うのです。

このような時に、皆が口ずさむ歌とはいかなる歌なのかとふと考えてしまうのでした。

♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎

スタッフとして参加したのにコンサート後は観客の皆さんに混じってやぎりんさんにサインまでもらってしまい昨日は良い1日でした。

そして今日、やぎりんさんのブログで昨日がビオレータ・パラの生誕100年であったことを知りました。
感慨を新たにしているところです。

素敵な演奏、ありがとうございました。

https://ameblo.jp/duo-quenarpa/entry-12309607299.html

2017年6月25日 (日)

鈴木酒造店長井蔵 一生幸福 金賞受賞 祝賀会

            

昨日行われた「鈴木酒造店長井蔵 一生幸福 金賞受賞 祝賀会」にご参加いただいた皆様、近隣のみならず遠方からも足をお運びいただきありがとうございました。

昨夜、何名かの方から「代表挨拶が素晴らしかったので後でFAXして欲しい」「何かの形にしておいてください」など拙文に対し、当方といたしましては嬉しいやら恥ずかしいやらのコメントを授かりました。

実はこの挨拶文を書こうとした時、私の頭の中から浮かび上がってきたのは先の世界戦で「まさかの判定負け」を喫したボクサー村田諒太選手のことです。

試合後のあるTV番組のインタビューで、彼はあのような判定負けをして憤りはないのかと問われると、「ない」と答え、驚くべきことに第二次世界大戦中、ドイツの強制収容所での体験を記したフランクルの名著「夜と霧」を引き合いに出し、「運命からの問いかけに応えるという生き方」について話し出したのです。

彼の話は自分の心境の的を得ていたのかとても印象に残りました。そして私が最初に思い浮かべたのが鈴木酒造店長井蔵のことだったのです。

「運命からの問いかけに応えるという生き方」とは「自分の運命を貫いて生きる」ということでしょう。

そんなモードで書いた主催者代表挨拶を自らの備忘録として掲載いたします。


♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

みなさん今晩は。只今紹介に与りました村田孝でございます。「鈴木酒造店長井蔵 一生幸福 金賞受賞祝賀会」を開催するにあたりまして、主催者を代表してご挨拶申し上げます。

鈴木酒造店長井蔵の皆様、平成28酒造年度全国新酒鑑評会での金賞受賞、誠におめでとうございます。

この度の受賞は鈴木酒造店長井蔵の皆様のみならず、ご親族を始め、全国各地に避難された浪江町の方々や福島の方々、今もなお再生を目指す被災各地、さらには常日頃、鈴木酒造店長井蔵と深く親交を結ぶ皆様にとりましても大変喜ばしいことであり、心よりお喜び申し上げます。

また、本日は何かとお忙しい中、本祝賀会に来賓といたしまして、長井市より、長井市長代理の遠藤健司(けんじ)副市長様、福島県からは浪江町長代理の本間茂行副町長様をはじめ、他、多くの方のご臨席を賜りましたこと、誠に感謝致しております。

さらに本日はこのように多くの方々にご出席いただきました。ご出席いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。

さて、今回鈴木酒造店長井蔵は全国新酒鑑評会において金賞を受賞したわけでありますが、全国新酒鑑評会は全国規模で開催される唯一の清酒鑑評会でありまして、清酒の品質及び製造技術の向上と、国民の清酒に対する認識を高めることを目的として設けられているものであります。今回は出品数860点の中から242点が金賞酒に輝き、鈴木酒造店長井蔵が醸した「一生幸福」もこの中の1点として名前を連ねているということでございます。鈴木酒造店長井蔵の酒造りに対する真摯な取り組みと、技術の高さが全国的な場で認められたということは誠に喜ばしい限りであります。

しかしながら本日のこの祝賀会は、単にこの金賞受賞のみを祝うものではないということをあえてここで申し上げたいと思います。

少し話が脇道に逸れますが、鈴木酒造店を語るとき、東日本大震災と原発事故に触れないわけにはいきません。

本日の祝賀会の意味と意義をご確認していただくために、1つの意見を紹介させていただきます。それは震災があった年の8月に朝日新聞に掲載された「福島の意味 事故と向き合い生きる覚悟」と題された文章のなかにあったものです。

それは次のようなものです。

「できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし、3月11日以後もそれは現実的だろうか。
脱原発について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで3月11日の事故が起きなかったかのようではないか。すると覚悟を決め、それが突きつける課題に挑む。福島の事故は、考え方をもそんな風に「一変」させるよう迫っている。」

私は、残念ながら日本人は現時点において未だにそれまでの考え方を一変させることができないでいると感じておりますが、私は本日ここで原発の話をしたいわけではありません。

鈴木酒造店は福島県浪江町で江戸時代から続く、伝統ある酒蔵を津波で流失し、原発事故の影響から故郷を奪われました。それでもなお、この地元長井の酒蔵であった東洋酒造を受け継ぎ、酒造りを再開されてからの再生への取り組みは、「すると覚悟を決め、それが突きつける課題に挑む日々の連続」だったであろうことは容易に想像できるのであります。

 そして、そのような日々を重ねながらも、避難移住先のこの長井の地で行政はもちろんのこと、レインボープランや影法師、長井市福祉協議会、長井グリーンツーリズムネットワーク、さらには地元農家や商工業者といった多岐にわたる方々との交流を図り、郷里福島浪江町や全国の酒販店、応援者の方々との絆を保ちながら活動してきたわけであります。

今日ここにお集まりの皆様と共にお祝いしたいのは、このようにして鈴木酒造店がこの地で長年親しまれた銘柄「一生幸福」で受賞した今回の「金」は、他の金賞酒とはまた別の輝きと香りをひときわ高く放っているということに対してであります。

また、全国新酒鑑評会での金賞受賞は長井の蔵元としては初めての事と聞き及んでおりまして、「一生幸福」と「甦る」の銘柄を鈴木酒造に託して亡くなられた東洋酒造の社長様もきっとお喜びになられていることと思います。

私も長井市民の一人として、皆様には鈴木酒造店にバトンを渡すまで蔵を守り続けた東洋酒造のご尽力に対しても盃をあげていただければ幸いです。

市民が守り続けた酒を、避難者として流れ着いた酒蔵が、受け入れ先の方々に見守られながらイノベーションを果たし、全国の場で賞を受賞するなど、どこにでもある話ではございません。

本日は長井市副市長様と浪江町副町長さまがこの場におられますので、是非今日のこの祝賀会をご縁にしていただきまして、町ぐるみの新たな交流、新たな復興の形に、繋げていただければこれ以上幸いなことはございません。

皆様、各テーブルの上に置かれた「一生幸福」をご覧ください。

「一生幸福」は、注ぐ時、酒瓶のお尻が持ち上がると福という文字が幸という文字よりも若干高くなって福島の幸せという当て字で「福幸(ふっこう)」となります。
注ぐたびに、「ふっこう、ふっこう」と囁きかけられ、おけば一生幸福を約束してくれるお酒です。

鈴木酒造店にしか引き継ぐことのできなかったお酒ではないでしょうか?

是非、今日はこの「一生幸福」を皆様の車座の中心に据え、心ゆくまで祝杯を重ねていただければと思います。

最後に私事で恐縮ではありますが、私もまた鈴木さんとは別な形の自主避難という形で福島県いわき市から長井市に移住をした者でございまして、震災後多くのメディアで鈴木酒造店の磐城壽が取り上げられる度に胸のすくような思いで報道に接しておりました。勇気を頂いておりました。

ですから避難者としての境遇をともにし、かつ元いわき市民であり、現在長井市民である私以外に本祝賀会を開催するものはいないという誠に勝手な思い込みから僭越ながら急な案内をお届けしたことをお許しください。

少々長くなりましたが、本日お集まりの皆様のご健勝と一生幸福を、また鈴木酒造店長井蔵、磐城壽の今後の益々のご発展とご活躍を心より祈念いたしまして代表挨拶とさせていただきます。

ありがとうございました。

                                                              2017.6.24

2017年2月28日 (火)

フリージア〜9回目の母の命日〜

         
                                                           

片付けをしていたら以前の職場で使用していたリムーバルディスクが出てきた。中を覗いてみたらこんなテキストが。

この文章を読んでから、そうか、今日は母の命日かと気づいた。

”人恋しいときは君に会いに行くだろう
一人になりたい時は君と語り合うだろう
 裏切られた時は君に感謝するだろう
そして性懲りも無くまた頂を目指すだろう”

最後の最後まで僕ら息子たちの無事を祈り続けた人。

僕も神様にお祈りする時はそればっかりだ。

紛れも無く、僕は母の息子だ。


♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎

「愛を伝える技術~父の記憶・母の記憶~」 

                                            平校 村田 陵思

保護者面談をすると、しっかりとした考えを持って子育てに取り組んでいる親御さんがおられ、かえってこちらが勉強させていただく場面に多々出くわします。

 先日お会いしたお父さんは子供たちには「頑固おやじ」と恐れられる今時珍しい(私には懐かしい!)タイプの方でしたが、面談ではとても穏やかに子育てに対する考えを話してくださいました。お話の中には共感できる部分が数多くあり、私が遅ればせながら2人の乳幼児を抱える「新米とーしゃん」であることを打ち明けると「親としてどんなに間違った言動をとってしまったとしても、しっかりと愛情を持って接していることが伝われば、子どもはおかしなことにはならないと思いますよ。」となんとも心強いお言葉。一体誰の面談なのかわからなくなってしまいました。
さて、そのようなことがあり、その面談の後しばらくして、もし人が一人前に成長する過程で、何度も親の愛情を感じる場面があるとしたら、私自身にとってのそれはいついかなる場面であったのかについて考えてみました。
 すでに他界している両親の事を思うと、それぞれに思い起こす場面があります。

わんぱくな男の子3人を育てるのはきれいごとではすまなかったのか、父からは拳骨をもらうこともしばしばありました。特に激しく叱られた日などはなかなか寝付けず、布団の中であれこれ考えていると、そんな日に限って父は私達兄弟の寝室に現れ、寝たふりをしている私達の布団を直してくれるのです。するとなぜかそれだけのことでスッキリとした気持ちで眠れたことを覚えています。

また、私達が「カギっ子になった日」の記憶も鮮明です。末っ子の私が小学2年生、長男の兄が小学6年生のある日、家に帰ると誰もおらず、テーブルの上に当時流行りのランチジャー3人分と書き置きがありました。書き置きには母が描いたであろうヘンテコな「仮面ライダー」と、吹き出しの中には私達への励ましの言葉がありました。それは当時私達が大好きだった仮面ライダーを使って、少しでも寂しがらせまいとした母の気持ちが描かせたもので、そのヘンテコライダーに難癖をつけながらも泣きべそをかきながら夕食を食べた思い出があります。寂しさ半分、嬉しさ半分で食べたかすかな温もりが残るランチジャー。あの夕食の味は忘れることができません。そして不器用ながらも懸命に愛情を伝えようとしてくれた今は亡き両親に感謝しています。

もし私達が平凡に、人並みに過ごしている日々が、親によって積み重ねられた愛情の記憶によって支えられているとしたら、私達大人が、親が磨かなければならないのは「愛を伝える技術」に他ならないと強く感じます。
塾生の親御さんとともに、私も一人の父親として成長できたらと思います。そして子供たちの中にも私なりの愛情を確かな記憶として刻みつけてやりたいと思います。

2016年4月 8日 (金)

ハル、新入学おめでとう!

                  

2年前に娘が小学校に入学したとき、このブログに
「母には晩年、私の独り身の原因が「自分にあるのでは…。」と思わせたようで、母が他界する2年前に妻との縁に恵まれ、1年前に娘が生まれた時には心からホッとしたものだ。どうしても「内孫」ってやつを母に抱かせてあげたかったからだ。
だから娘は生まれてきただけで、私に本当に大きな親孝行をプレゼントしてくれた。だから私は実は娘には頭が上がらない。」と書いた。

だが一方息子を見る度に僕には後悔が募る。
「こいつを見せてやれなかったのか・・・。」と思ってしまうのだ。

見たらきっと毎日笑い転げているだろう。僕ら家族がこの5年間彼を見てそうしていたように。

僕は彼にあまり多くを望まないけれど、もしひとつだけ言わせてもらえるなら、どこにいても、どこか見知らぬ場所にパラダイスを探し求めるのではなく、今いる場所をパラダイスに変えられるような男になってもらいたいと思う。

薄気味悪い男にだけはなるな。

男子、その名のごとく好漢たれ。

Img_3387

Forever Young(いつまでも若く)by ボブ・ディラン
May God bless and keep you always
May your wishes all come true
May you always do for others
And let others do for you
神様が君を祝福し
いつも見守ってくれますように
君の願いがすべてかないますように
君がいつも誰かのために尽くし
誰かが君の力になりますように
May you build a ladder to the stars
And climb on every rung
May you stay forever young
君が星へと続くハシゴをつくり
その一段一段を登っていけますように
君がいつまでも若々しくありますように
Forever young, forever young
May you stay forever young.
いつまでも若く いつまでも元気で
君はいつまでもそのままで
May you grow up to be righteous
May you grow up to be true
May you always know the truth
And see the lights surrounding you
君が正義感を持って育ちますように
君が誠実な人間に育ちますように
君がいつも真理を知ることができ
君を包んでくれる光に気付けますように
May you always be courageous
Stand up right and be strong
May you stay forever young
君がいつも勇気を持ち
背筋を伸ばし力強くありますように
君がいつまでも若々しくありますように
Forever young, forever young
May you stay forever young.
いつまでも若く いつまでも元気で
君はいつまでもそのままで
May your hands always be busy
May your feet always be swift
May you have a strong foundation
When the winds of changes shift
君の手がいつも忙しく動いてますように
君の足がいつも迅速に動いてますように
強くゆるがない信念を持ちますように
変化の風向きが変わろうとも
May your heart always be joyful
And may your song always be sung
May you stay forever young
君の心がいつも喜びに満ち溢れ
君の歌がいつも歌われ
君がいつまでも若々しくありますように
Forever young, forever young
May you stay forever young.
いつまでも若く いつまでも元気で
君はいつまでもそのままで


2016年3月11日 (金)

未来からの糾弾 5年目の3.11に寄せて

   

東日本大震災&原発事故から今日で5年。

「震災から今日までどのような思い出過ごされましたか」と問われる機会がいくつかあって、その度一生懸命答えさせていただいているのだけれど、いつも的外れな回答で終わってしまう。

だが、先日いくつかのブログを眺めていて5年間自分がずっと引きずっている感覚を見事に表現している記述を見つけた。以前にも目にしていたが今改めて読むと自分の中の心の的の真ん中を見事に射当てている。

震災&原発事故の翌年2012年3月12日のブログ「ペンギン・ビート」の記事がそれだ。

少し長いが以下全文を引用してしまおう。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

「僕らはまだ揺らめいている巨大なものの前にいる。」

昨日の3・11、PM2:46に市の放送があって黙祷した。しかし、実際は地震があったこの時間からさらに約10~15分後に起きた津波によって被害は甚大なものになった。去年のその時のことを思い出すと、僕は都心のプレハブ建ての3階にいて何かのアトラクションのような目に合った後、外に出て現実とは思えないほど揺らめいている高層ビルを呆然と見つめていた。周囲も皆、騒然としていたが、実はその時にこそ津波というもっと具体的な悲劇が始まっていたのだが誰も知らなかった、その時には。
文字通り悲劇が渦巻いているのに何も知らずにいたあの10~15分間が、その後の1年をずっと覆っていたような気がする。いくらいろんな事実が明るみになっても、まだ自分は何かを知らないでいる・・という感覚があの時から始まったのだ。

3・11は終戦記念日や防災の日のような記念日や祝日にはならないだろう。僕らはまだ揺らめいている巨大なものの前にいる。

それは高層ビルではない。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

僕の中にずっと燻っているものはこれで、それは今この瞬間の自分も「悲劇が渦巻いているのに何も知らずにいたあの10~15分間の自分」ではないのか?という疑いにも似たものだ。

(そしてそこに僕らを押しとどめようとする力の存在も感じる。)

もちろん人一倍鈍感で、物忘れが激しく、何かに集中すると何も耳に入らなくなる自分が今この瞬間にも確実に起きているであろう世界中の悲劇を全て意識して生活するなんて出来ようもない。

でもそんな自分のアンテナでも何かの違和感を察知し、それが誰かの悲劇や巨大な悪につながると感じたのなら声をあげてしっかりと拒みたいと思うのだ。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

今年から始まったNHKスペシャル「新映像の世紀」の第3集「世界は独裁を選んだ」の恐るべきラスト。

それは第二次世界大戦終結後、実態が明らかになった強制収容所の死体の山を見せつけられ「知らなかったんだ。」と叫ぶドイツ人に対して収容者たちが「いや、お前たちは知っていた」と告げる場面だった。

「原子力非常事態宣言」が解除されず、高濃度の汚染水を垂れ流し続けていながら経済成長ばかりを唱え、原発を再稼働し、オリンピック騒ぎに躍起になりそのあげくのはてに未来の子供たちを再び悲劇に陥れる事態を招いたとき、僕らもまた先のドイツ人と同じように「知らなかったんだ」とでも言って言い逃れるつもりなのか。

このままでは、僕たちもまた未来の子供たちに糾弾されるだろう。そしてあの日亡くなられた多くの魂たちからも。

「いや、お前たちは知っていたのだ」と。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

動画はベタだが34年前に発表された浜田省吾のナンバー。今こそリアルに響くこの名曲が曲中に現れる恋人たちの身に起こることまで言い当てないで欲しいと切に願っている。 5年目の3.11に 合掌

2016年2月28日 (日)

FBより転載 魚肉ソーセージ

       


ここ最近毎週日曜の夜に見ていたNHKBSプレミアムの「鴨川食堂」今夜はその最終回。

「思い出の食」の種明かしは魚肉ソーセージでした。( ピンクのチャーハンでピンときました。)

練り物、特に魚肉ソーセージなんか添加物が多いからと僕の身体を気遣う妻は食べさせてくれないけど、子供の頃は随分こいつにはお世話になりました。

ドラマとは使い方は違かったけれど、チャーシューの代わりに我が家でもチャーハンに使われていたし、月末になるとスライスしたものをフライパンで醤油を回しただけで炒めて、熱で膨れ、焦げ目のついたやつで何杯も米を食べました。

僕ら3人の息子たちの腹を満たすために親には安価でありがたい食材だったのでしょう。
そんな事を思い出しながら一人ツナ缶を肴にチビチビとドラマを観ていたらついホロリとさせられてしまいました。

今も無性に食べたくなる時があります。

今日2月28日は母の命日。

もう少しマシな思い出はないのかとあの世で苦笑しているかもしれません。
怒らない、怒らない。これでも感謝しているのデス。

2016年2月 4日 (木)

灰色の男たち〜山賊と渡り鳥の歌〜

       

「ブログを読むと村田さんってとても恐い人なのかと思ったけど、会ってみると全然ちがいますね。」

何人の人にそう言われただろうか?

二人の兄のうち長男からは「お前はハッキリもの言い過ぎる」と言われ次男からは「なんかの変な宗教か派閥の思想にかぶれた変な奴だと思われるから気をつけろ」と嗜められたこともある。

だからよく福幸ファームで農作業をしていたとき低空飛行でヘリコプターなんかが頭上に飛んでくると仲間たちに

「今ヘリにゴルゴ13が乗ってて俺のこと狙ってるの見た!」とかいって納屋にみんなで避難して大笑いしていた。

「そろそろいいかな?」ってみんなで納屋から出たらヘリが旋回して再び僕らの方に向かって飛んで来たときには本当にあせって、それからまた爆笑した。

でも何かに狙われているという感覚はあながち嘘じゃなくて、僕がいつも気をつけているのはミヒャエル・エンデの童話に出てくる「時間貯蓄銀行」の灰色の男たちだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/モモ_(児童文学)

時間と心の余裕だけは奪われたくはないのだ。

暮らしの転換はまずはそこからだと思うからだ。

2016年2月 2日 (火)

スマイルふくろうプロジェクトのこと

       


トムは言った
「ママ、暗がりを探してみてくれよ。
警官が俺の仲間を殴っているところに、
腹を減らした子供が泣いているところに、
差別や憎しみが生みだす争いの陰に、
ママ、俺はそこにいるよ」

「誰かが自分の自由を守るため、
日々の糧を、救いを求めて立ち上がっているのを見たら、
彼らの瞳をのぞいてみるといい、
ママ、俺はそこにいるよ」
(ブルース・スプリングスティーン「ゴースト・オブ・トムジョード」より)

東日本大震災&原発事故から間もなく5年がたとうとしている。
君はその後の生活で何が変わった? 何を変えた? そして僕は?

今なお約10万人が避難生活を送る一方で、TVの中だけを眺めてみれば、芸能スキャンダルや汚職事件を尻目に原発は再稼働されてしまい、みなリオや東京オリンピックをダシに一儲けすることばかり考えているように見える。

お偉方にとって復興は震災&原発事故前の「復元」であり「転換」ではなかったようだ。

そんな中、友人夫妻が福島県二本松市岳温泉のふもとの仮設住宅にて避難する浪江町の方々のためにあるプロジェクトを立ち上げた。

(詳しくはこちらのブログをどうぞ)
http://palavas.dreamlog.jp

「スマイルふくろうプロジェクト」と名付けられたこのプロジェクトはこの仮設住宅に避難生活を送る方々が作った「ふくろうのお守り」を販売し、この方々の生活に役立ててもらおうというもの。

僕の周りには草の根でこのような活動に取り組む方々が大勢いてそのことに勇気をもらうことが多い。

早速僕もお預かりしている受験生たちこのお守りを送り、話しをしてあげようと思う。

「悲劇に遭遇し苦境に立たされたとき程、誰かのためにつくすべきだ。僕が3.11から学んだことの一つだ」と。

昨年悲しい出来事に見舞われた友人夫妻もこのことを知っていたようだ。

このアクションに拍手を送りたい。

間もなく5年目の3.11を迎える。


♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

※動画

How Can a Poor Man Stand Such Times and Live?

                              by ブルース・スプリングスティーン

医者がここへ明るい顔をしてやってくる
彼は言う「もう少ししたらよくなるよ」
彼がくれるのはインチキ薬と一服の鎮静剤と馬鹿でかい請求書
いいかい、どうして貧乏人はこんな時代に耐え、生きることができる?

彼は言う「私と友だちは学生時代、この町では本当にいい思いをした
あんたたち貧しい黒人に起こったことは、実にきのどくだ」
彼はあたりを見回し「いつでも手を貸すよ」と社交辞令を言い、出て行った
いいかい、どうして貧乏人はこんな時代に耐え、生きることができる?

運河には死体が浮かんでいる、堤防はどこも決壊した
マーサ、俺の16口径と濡れてない銃弾を取ってくれ
持てる者は町を出て、持たざる者は逃げられず溺れ死んだ
いいかい、どうして貧乏人はこんな時代に耐え、生きることができる?

家族はテキサスから遥かバルチモアまでばらばら
もうこの世に家と呼べる場所もない
最後の審判の時がくる、確かに、正義の汽車がやってくる
いいかい、どうして貧乏人はこんな時代に耐え、生きることができる?

2016年1月31日 (日)

「うぇるかむ」69号より転載

       

復興ボランティア支援センターやまがたの避難者向けフリーペーパー「うぇるかむ」69号にてスペシャルインタビューとして取材を受けました。(こちらのリンクからご覧になれます)http://kizuna.yamagata1.jp/modules/con01/index.php?content_id=8

許可をいただきましたので、当ブログに転載させていただきます。

以下がその記事です。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

うぇるかむ69号 スペシャルインタビュー 

                        長井市 総合学習指導塾 七色学舎 村田孝さん

Q震災前・震災後はどこで過ごしていましたか?

福島県いわき市出身です。塾の講師として勤務していて、研修で千葉県にいる時に震災が起こりました。福島に戻り実家に避難して断水の中過ごしていると、職場の上司から「原発で作業員をしている友人からの情報によると原発が危ないらしい」との連絡があり、3月12日の原発爆発後、3月14日に兄が住んでいる長井市に家族で避難する事にしました。

Q塾をはじめるきっかけは何ですか?

震災前に働いていた塾の社長や奥さんはとても良くしてくれた方で、塾の子ども達の事もすごく気になっていたのに、自分は塾をやめて避難してきたことに後ろめたさのようなものもあって、避難先で塾を始める気にはなれませんでした。
長井市に避難してからは、NPO法人レインボープラン市民農場の方々と出会いがあり、職員として働き始めました。畑作業は初めてでしたが、一から野菜作りと米作りを教えてもらえるとあって前向きに取り組むことができました。2012年3月には、レインボープラン市民農場の名義でお借りした休耕地・休耕田を「福幸ファーム」と名付け、同じ避難者の方々と共に作った野菜を福島や神奈川、関東へ届ける活動を始めました。また浪江町から避難してきて、長井市で酒造りを再開した鈴木酒造さんとも出会いがあり、福幸ファームで作ったお米『さわのはな』で鈴木酒造さんには『甦る』というお酒を造ってもらっています。

現在は福幸ファームの販売部門と位置づけ、「福幸ヴィレッジ」の名で安心野菜の個配業も行っていますが、これらの取り組みを経て原発事故後の生活のあり方を考えたとき、「農」を生活に取り込み自給的に暮らすことの必要性を痛感するようになりました。そしてそのことをこれからの若い人たちと共に考えたいと思い始めたとき改めて自分の中で「塾」というものとらえ直すことができたように思います。

今年に入り準備を始め、以前働いていた塾の社長も力になってくれて、11月2日に「七色学舎」を始める事になりました。以前の塾の社長とは今も連絡を取り合いアドバイスを頂くなど、本当に感謝しています。

Q塾をはじめてみて、どうですか?

今は10人ほどの生徒ですが、口コミで少しずつ生徒も増えています。講師は私を含め二人で、難しい宿題を沢山出すのではなく、学校の授業で分からないところや、生徒たちがやりたい部分を丁寧に教えるようにしています。目指すのは地域密着型の塾で、地域の方々との関わりを持ちながら土日には生徒や親御さんたちと季節に応じた交流体験もしたいと考えています。そうした活動を通していつか福島の子供たちとの交流を図れればと思っています。

避難している方へのメッセージ

震災前は忙しい毎日で、例えば友人に手紙を書く時間がなかったり、人とのご縁を大切にする余裕もないまま生活をしていました。震災後失業を経験し、それがきっかけで生活のペースにゆとりが生まれたことで、それまで切れていたご縁が戻ってきたような感覚でした。またそれに加え避難先でも地域の方々とのご縁を数多く頂き、不幸中の幸いではありますが、この点に関しては震災前より豊かに生きられるようになったと感じています。
そのことに喜びを見いだして生きていくことは先の見えない不安な避難生活の中で私たちが手にした「特権」の一つではないでしょうか?

総合学習指導塾 七色学舎
〒993-0002 山形県長井市屋城町1-40 TEL・FAX:0238-87-1270 メール:nanairogakusha@outlook.jp

«この更新はMarch